■
くらたさんとぽんさんといしーさんの話ですが、常識的に考えて長すぎると思ったので、僕なりにまとめてみようと思いました。太字になった部分が僕なりのまとめです。僕が文章の内容を誤解している可能性があり、その誤りは僕のものです。くらたさんの話から始まった会話を取り上げて、他の部分はできる限りそぎ落としたつもりです。
- khaki,green and deeppink. - 2007-05-22
- http://d.hatena.ne.jp/kurata/20070522#1179838156
くらたさんの話は、
- M@D を久しぶりに見た。
- M@D は2年くらい前からまったく進歩がないと思った。
- 小手先の技術を重視しすぎだと思った。
- M@D の中でポエムを書くべきではないと思った。
- Autechre というアーティストの曲で M@D を作ればいいのにと思った。
- というのは、Autechre というアーティストの曲は独特で、その曲にあわせて M@D を作れば独特なものができると思うからである。
- 曲を変えれば M@D は変わる。曲を変えろ。
ということだと思いました。
くらたさんの話に対するぽんさんの話は、
- ミュージックビデオであるということではなく、M@D を作るという行為それ自体が重要だと思う。
- なぜなら、 M@D というのは、ミュージックビデオを作ることに限らず、オタクが何か作品を消化することで得たものを形にすることだと思うからである。
- M@D 界の人たちは、小手先の技術を重視することや音楽センスがないことを許容していると思う。
- なぜなら、それらは昔から言われていることだと思うからである。
- ただし、昔に比べると少なくとも選曲の幅は広がっていると思った。
- 例: Krsnik や、ひとみすいれんさん他の選曲。
- くらたさんは Autechre というアーティストの曲に則って M@D を作れば独特のものができると言うが、それは単に元の音楽が独特だというだけで、作者自身の独特さではないのだから、その M@D は本当の意味では独特ではないのではないか?と思った。
- ただし、くらたさんの言うとおりたしかに従来のものとは違う演出はできるんじゃないかとは思った。
- 曲のおかげだけで独特になった M@D は、本当の意味では独特ではない。
- ただし、曲のおかげで独特になった M@D は、新しい表現方法を発生させるかもしれない。
ということだと思いました。
くらたさんの話に対するいしーさんの話は、
- くらたさんと同じく、音楽が似たり寄ったりなのが M@D 作品を似たり寄ったりにしていると思うので、選曲の幅を広げれば M@D の可能性が広がるんじゃないかと思う。
- しかし、独特な曲を使ったからといってそれが傑作になるとは限らないと思う。独特な曲を使うことよりも、作品にとって適切な曲を使うことの方が重要だと思う。
- 優秀な M@D 作者は自分の必要に応じて外部の表現を取り込んでいくだろうし、それでいいと思う。
- 選曲の幅は M@D の可能性を広げるが、いずれにせよ作品にとって適切な曲でなければならない。
ということだと思いました。
- oyaji、もう一丁。
- http://f22.aaa.livedoor.jp/~dubai/bbs/light.cgi
ぽんさんの話に対するくらたさんの話は、
- ぽんさんは M@D をミュージックビデオに限らないというが、実際の話としてミュージックビデオばかりになってしまっているのが現状だと思う。
- M@D を「編集者の意思の元に、著作権を保持していない映像ソースを(無断で)編集し、一個の作品に仕立てた動画」と定義してみる。
- こうしてみると、音楽がなくても M@D が成り立つことは明白だと思う。
- しかし、実際の話として M@D はミュージックビデオばかりになってしまっていると思う。
- このことを鍵にして M@D を根本的に変えられるかもしれないと思う。
- M@D を形式として、あるいはシステムとして冷静に観察して定義づけすべきだと思う。
- そうしない限り、いつまでもデモムービーのような作品が作られ続けるだけだと思う。
- ぽんさんは選曲の幅が広がっていると言うが、よくわからない。ただ、みんなセンスがないと思う。
- ぽんさんと同じく、音楽のおかげで独特になった M@D が独特のものであるとは思わない。
- しかし、現状の M@D はミュージックビデオであり、音楽を基盤にしてそれに映像を付け加えることで制作されている。
- だから、音楽を変えれば演出が変わると思う。
- というのは、新しい音楽のおかげでこれまでの伝統的な手法が使えなくなり、新しい手法が発生すると思うからである。
- 新しい選曲は、これまでのデモムービー的な古い手法をなくして、新しい手法を生む。
- そしてそれは M@D をミュージックビデオから離れさせるかもしれない。それは M@D に革命を生むかもしれない。
ということだと思いました。
くらたさんの話は、
- 自分は M@D や原作に対して思い入れを持つことはないし、作者への興味もないと思う。
- 自分は音楽と映像の関係性や映像そのものについて考えるミュージックビデオマニアだと思う。
- 静止画 M@D にはいくらでも可能性があるにもかかわらず、進歩がないので退屈だと思う。
- ただしこれは自分の個人的な意見であって、他人に強制したいとは思わない。
- M@D を進歩させたければ、 M@D という形式を明晰に認識し方法論的な意識を持たなければならないだろうと思う。
- そういう作品はおもしろいと思うし、そうでないものはできばえに感心することはあってもおもしろいとは思わない。
- M@D 作者は M@D を作ることに自覚的でなく、ただ漫然と作っているだけだと思う。
- M@D というものを、あるいは自分と M@D の関係を見直して考えてみるべきだと思う。
- 今まで M@D に関する文章を書いてきた人たちは批評を書けていなかったと思う。
- 彼らが書いていたのはただの添削で、それは伝統的な文法にその作品が適合しているかどうかを評価するものだったと思う。
- 添削が通用しないような、伝統的な文法を乗り越えた M@D を作るべきだと思う。
- 自分は M@D に関しては素人だが、この文章を笑って読み流すべきではないし、素人にこんなことを書かせてしまう現状を恥じるべきだと思う。
- 批評的な意識を持つべきだ。
ということだと思いました。
くらたさんに対するいしーさんの話は、
- M@D 界の人間として、言われっぱなしにならないように反論をしておこうと思う。
- ただし自分は音楽オタクだと思うので、 M@D 界の人間の一例としてはあまり適切でないと思う。
- 洋楽を聴くべきだとは思わないが、エロゲーやゲーム音楽や日本の曲を使用するのであれば、ちゃんと理由を持って選びその必然性を表すべきだと思う。
- ただし、優秀な作品はそれができていると思う。
- くらたさんは作者たちが「なぜ自分は M@D を作ることを選ぶのか」と自問していないと言うが、 M@D 界の人たちはある程度それをやっていると思う。
- なぜなら、それなりに試聴がいると思うし、ニコニコ動画にアップされた場合にはどうあれ評価されると思うからである。
- M@D を作ることに自覚的な人たちはいる。
- 作者が作品にとって適切だと思わない曲を使うのはよくないと思うが、現状は選曲が似たり寄ったりになって M@D の自由度が損なわていると思うし、それもよくないと思う。
- ニコニコ動画の作品は自由度は高いと思うが、よいとは思わない。
- というのは、完成度が不足していたり、一発芸以上の瞬間芸が求められていると思うからである。
- M@D 界は、完成度と自由度のバランスが取れたものを作ることができるよい場所だと思う。
- 本音としては、選曲の幅がもう少し広くなって、もっといろいろな人にあらわれてほしいと思う。
- 例:「純正PVがウゼぇから作ってやる!」という人や、「自主制作映画に限界を感じて来ました」という人。
- そうするには選曲を新しくするのが適切だと思うが、そうやって急な変化を起こすことは手放しには賞賛できないと思う。
- というのは、その新しい選曲がまねされて、結果的に似た傾向のものばかりになると思うからである。
- 選曲を新しくすべきだとは思うが、それを故意に行って急な変化を望むべきではない。
ということだと思いました。
いしーさんに対するくらたさんの話は、
- いしーさんは作者たちが「なぜ M@D なのか」という自問をしていると言うが、その問いに答えるには「 M@D とはなんなのか」ということを多かれ少なかれ理解しなければいけないと思う。
- もし自問自答ができているなら、なぜ似たり寄ったりのスタイルになっているのか疑問に思う。
- 例:「神月風」のスタイルや、「デモ屋風」のスタイル。
- やはり自問自答はできておらず、 M@D はそういうものだという固定観念に囚われてしまっているのではないかと思う。
- めめめさいどという作品はスタイルに対する問いが多少はあると思うが、それはあくまでこれまでのスタイルとは違うものだというだけのことであって、その先の M@D それ自体を変えるようなものではないと思う。
- ただし、 M@D に対して批評的であり、そこから M@D そのものに対する問いを抱かせる可能性があるので、そのことは評価しようと思う。
- また、 M@D 界の人たちは、M@D を作る手法として似たり寄ったりのスタイルを選ぶのではなく、似たり寄ったりのスタイルのものを作りたいからその手法として M@D を選んでいるだけなのかもしれないと思う。
- M@D を作ることに自覚的な人たちはいない。
ということだと思いました。
くらたさんの話は、
- 作品のできばえが重要だとは思わない。
- 狭すぎる表現に留まるべきではないと思うし、可能性を試みることが重要だと思う。
- そのために、選曲を広げて、論理的に M@D を定義し、構造分析をしなければならないと思う。
- いしーさんは似たようなものが量産されるのが心配だと言うが、現状でさえ似たようなものどころか同一のものばかりなのだから問題ないと思う。
- 多くの手法を発見すべきだと思うし、作者が適切な手法を選べるだけの選択肢が必要だと思う。
- というのは、静止画 M@D というものにおいて、似たり寄ったりのスタイルばかりなのはおかしいことであり、他の手法も存在するはずだと思うからである。
- 新たな方法を生み出す作品自体が傑作であるかどうかは問題ではない。
- それによって生み出される新たな方法が、新たな傑作を生み出す可能性を用意するということこそが重要だ。
ということだと思いました。
まったくまとまらなかったことが判明しました。