Re-Night

(この文章は、2007年9月26日の1番目の文章から続きました)

また見た。鍵盤の演出についてちょっと書いておこうかなと思ったので、また見てみました。僕はあんまり読解能力がない方だと思うので、まったく内容を誤解している、あるいはあまりに自明のことでくだらない話になっているということがあるかもしれません。また、映像に関する知識は単純にまったくないので、そういったことに関してはたぶん間違っているところがあるだろうと思います。

0000-0011
クレジット。
0012-0019
台詞。背景に誰かの心象風景を映す。
0020-0021
タイトル。
0022-0026
人物紹介。バゼット・フラガ・マクレミッツ
0027-0030
人物紹介。アヴェンジャー。
0031-0033
人物紹介。イリヤ
0034-0035
人物紹介。間桐桜
0036-0037
人物紹介。ライダー。
0038-0040
人物紹介。セイバー。
0041-0045
人物紹介。カレン・オルテンシア
0046-0050
台詞。それにかぶさって、人物紹介。遠坂凜。
0051-0054
台詞。それにかぶさって、人物紹介。衛宮士郎
0055-0059
衛宮士郎を映したあと、交錯するようにアヴェンジャーを映す。
0100-0102
ここから戦闘の映像が始まる。場所の説明。
0103-0103
ダメージを受ける誰かのシルエットが映る。
0104-0108
戦闘するセイバー。それにかぶさって、衛宮士郎とセイバーの会話。
0109-0117
ここから衛宮士郎の心象の映像が始まる。衛宮士郎の台詞。
0118-0118
衛宮士郎に語りかける金髪の少年の記憶。
0119-0119
衛宮士郎に語りかける白髪の男の記憶。
0120-0126
ここで衛宮士郎の心象の映像が終わる。心象から現実に戻るようにして、攻撃する衛宮士郎
0127-0131
攻撃する白髪の男とセイバー。二人の攻撃が交差して、白髪の男が消える。ここで戦闘の映像が終わる。
0132-0136
物語を説明する台詞。背景に鍵盤を弾くカレン・オルテンシアを映したあと、目を閉じたバゼット・フラガ・マクレミッツを映す。
0137-0141
攻撃するセイバーとバゼット・フラガ・マクレミッツ
0142-0145
物語を説明する台詞。背景に目を閉じて鍵盤を弾くカレン・オルテンシアを映す。
0146-0150
青髪の男の姿。それに攻撃するバゼット・フラガ・マクレミッツ。ダメージを受けるバゼット・フラガ・マクレミッツ
0151-0155
物語を説明する台詞。背景に鍵盤を弾くカレン・オルテンシアの後ろ姿を映したあと、数人が一緒に立つ姿を映す。
0156-0208
台詞。
0209-0105
クレジット。

ここで何が言いたいのかというと、この作品は鍵盤の音と鍵盤の映像を組み合わせることでその鍵盤が持つ物語の支配権を表現していて、その演出がいいなと思ったということです。以下にその話を書きます。

この作品において、カレン・オルテンシアが登場するシーンは四つあります。そのうちの三つのシーンでは、すべて彼女が鍵盤を弾いている姿が映されています。このことから、カレン・オルテンシアと鍵盤を結びつけようという作者の意図がくみ取れると思います。

残ったもう一つのシーンは人物紹介で、夜の草原に立つ姿と何かに対して身構えている姿が映されます。このシーンでは鍵盤が映されないため、彼女と鍵盤との関連が表現されていないように見えるかもしれません。しかし、この作品に使用されている楽曲は鍵盤の音が印象的な器楽曲で、その鍵盤の音色が最初にあらわれてくる瞬間が、彼女の人物紹介のシーンの始まりに重ねられています。やはりカレン・オルテンシアと鍵盤が結びつけられているのがわかると思います。

ちょっと別の話になります。この作品の登場人物は、人物紹介があるものと人物紹介がないものの二種類があるんですが、それを特に区別せず列挙すると下のようになると思います。

なぜ登場人物に人物紹介があったりなかったりするのかは、正直なところよくわかりません。作品の中での重要性によって決まっているようではなく、人物紹介だけされてほとんど出番がない登場人物もいるので、雰囲気で決められたんじゃないかなと思いました。

登場人物たちにはもちろん、それぞれに一応の出番があります。アヴェンジャーは、登場人物のすぐあとの心象のようなシーンで、衛宮士郎との関係性を示唆されます。セイバーと衛宮士郎は、橋の上で白髪の男と戦闘します。金髪の少年は、衛宮士郎の記憶の中で彼に語りかけています。バゼット・フラガ・マクレミッツはセイバーと戦闘します。青髪の男はバゼット・フラガ・マクレミッツと戦闘し、彼女の胸を貫きます。イリヤ間桐桜とライダーと遠坂凜は、最後の方のシーンで思い出したかのようにセイバーを加えて並べられます。そして、カレン・オルテンシアは、一人で鍵盤を弾き続けています。

ここで重要なのは、カレン・オルテンシアだけが自分以外の登場人物との関連を持たず、ずっと一人で存在しているということです。他の登場人物たちは全員、その程度の差こそあれ、自分以外の登場人物と関連づけられ、そうすることによって場を形成しています。カレン・オルテンシアだけが共通の場に存在していません。

他の登場人物たちと同じ場にいない彼女は、いったいどこに存在しているのか。つまりここで、彼女は音楽の中に存在しているんじゃないか、という話になるわけです。彼女は他の登場人物たちと関わりを持ちませんが、作品自体の音楽を奏でることによって一つ上の次元から物語を支配しているということです。彼女が鍵盤を弾く姿に重ねられる台詞はおそらく彼女自身のものだと思いますが、これは物語の状況を説明するものであり、シナリオ上でも彼女が全体を俯瞰できる支配的な立場にいることを表現するものだと思います。

この作品の最後では、登場人物たちがすべて退場し、おそらくは彼女のものであろう台詞だけが映されます。そしてそのときに流れているのは、ただ鍵盤の音だけというわけです。いい演出だなと思いました。

このように彼女が物語に対して支配的だという感覚を受ける原因は、他にもあるんじゃないかなと思います。人間の脳の働きは複雑だと思うので、あんまりよくわかるわけではありませんが、いくつか挙げるだけ挙げて書いておきます。

  • 彼女が語りかけている相手が明確ではない。
  • 他のシーンに比べて、彼女が鍵盤を弾いているシーンは画面の動きがゆったりとしている。
  • 鍵盤の音が流れているときには、彼女以外の人物の台詞らしい台詞がない。彼女だけが語っている。
  • 彼女以外ががんばって戦闘している裏で、彼女は悠々と静かに鍵盤を弾いている。
  • 彼女が鍵盤を弾いているシーンは、他のシーンの裏でずっと繋がっているように進行している。
    • つまり、彼女は一連の流れとしてずっと鍵盤を弾いており、その合間にいくつもの戦闘のシーンが挟まれている。あるいはその逆で、いくつもの戦闘のシーンの合間に、彼女がずっと鍵盤を弾いているシーンが切り出されて挟まれている。

映像と音楽を重ねて表現するという演出がおもしろいという話だったんですが、もしかするとそんなものは古の昔から M@D 界で用いられている手法で、みんなごく普通のものとして当たり前に扱っているんじゃないかという気もしました。

(この文章は、2007年10月3日の2番目の文章に続きました)